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東京地方裁判所 昭和45年(ヨ)7113号 判決

東京都○○区○町六丁目四二番地

債権者 戊橋俊五

〈ほか五名〉

右債権者ら訴訟代理人弁護士 尾山宏

同 山根晃

同 雪入益見

同 田原俊雄

同 大川隆司

同 高野範城

同 田中富雄

同 岡部保男

同 荒井新二

同 白石光征

同 大森鋼三郎

同 秋山信彦

同 永盛敦郎

同都文京区小日向三丁目四番一四号

債務者 学校法人拓殖大学

右代表者理事長 中曽根康弘

右訴訟代理人弁護士 和田良一

同 金山忠弘

同 青山周

同 美勢晃一

右当事者間の学生の地位を定める仮処分申請事件について、当裁判所はつぎのとおり判決する。

主文

債権者らの申請をいずれも却下する。

申請費用は、債権者らの負担とする。

事実

第一当事者双方の求める裁判

1  債権者ら

債権者らが、債務者の設置する拓殖大学の学生たる地位にあることを仮に定める。

2  債務者

主文第一項同旨

第二当事者双方の主張

一  債権者らの申請の理由

(被保全権利)

1 債務者は、私立学校法にもとづいて設立された学校法人であって、拓殖大学、拓殖短期大学などを設置しているものであり、債権者らは、右拓殖大学の学生として、昭和四五年八月当時、それぞれ、左記のとおりの学部、学年に在学していた。

甲塚正一 政経学部経済学科三年

乙江二 右同

丙野裕三 商学部貿易学科二年

丁井研四 政経学部政治学科三年

戊橋俊五 商学部貿易学科三年

己上幸六 右同 四年

2 債務者は、昭和四五年八月一八日、債権者甲塚、同乙江、同丙野はいずれも退学の、また債権者丁井、同戊橋、同己上らはいずれも無期停学の各処分に付されたとして、債権者らが拓殖大学の学生であることを争い、あるいは学生としての権利行使を認めていない。

そこで、債権者らは、債務者を相手として拓殖大学の学生たる地位を有することの確認を求める本訴を提起すべく準備中である。

(保全の必要性)

しかし、退学処分をうけたとされている者はもちろんのこと、無期停学処分をうけたとされている者も、大学において勉学、研究をする機会を奪われてしまっているため、その間、聴講、受験(三分の二以上講義に出席しないと受験資格がない。)による単位取得が不可能となり、卒業が延期されることは必然である。債権者らは、いずれも乏しい家計の中から上京、入学しアルバイトをしながら苦しい学生生活を続けているのであって、卒業延期によって青春の貴重な時間を奪われ、回復不能の著しい損害を蒙る危険がある。

よって、かかる損害を防止するため、本件申請に及んだ。

二  申請の理由に対する答弁および処分事由の主張

(答弁)

1 被保全権利に関する主張はいずれも認める。

2 必要性に関する主張は争う。

(処分事由の主張)

1 債務者が債権者らに対してその主張のとおりの懲戒処分(以下、本件処分という。)に付したのは、債権者乙江、同丙野は、昭和四五年六月一九日、二〇日、二三日の校庭における無届不許可集会、デモ等において、同戊橋は、六月二〇日、二三日の無届不許可集会、デモ等において、同甲塚、同丁井、同己上は、六月二三日の無届不許可集会、デモ等において、いずれも指導的な役割を果したことを理由とするものである。そして、債務者は、以下に述べるような諸事情を考慮した結果、債権者らの右行為は、拓殖大学学則(以下、単に学則という。)五二条四号「学校の秩序を乱しその他学生としての本分に反した者」に該当し、債権者乙江、同丙野、同甲塚についてはいずれも教育改善の余地なしと認め、同丁井、同戊橋、同己上についてはいずれも改善の機会を与えるのを相当と認めたものである。

2 本件処分をするにあたって考慮された六月一九日、二〇日、二三日における事実の経過と債権者らの行動、右についての反省の程度、ならびに債権者らの学業成績、平素の行状は次のとおりである。

(一) 六月一五日に拓忍会(学内における空手愛好団体)からの退会を申出た政経学部一年安生良作が右会員の暴行をうけて死亡するという不祥事件が発生した(以下、単に安生事件という。)が、六月一九日の集会は、約三〇名の学生により校庭で右安生事件に対し抗議するということで始められ、学生部長始め大学教職員のただちに中止するようにとの説得を聞き入れず続行され、携帯マイクを用いて演説がなされ、参加者は「拓大民主化」、「暴力反対」、「安保粉砕」などのシュプレヒコールを行ない、さらにはインターナショナルを高唱するなどして気勢をあげた。この突然の騒ぎに授業中の学生多数は授業を中断された。また集会参加者約五〇名は本館正面階段前に約一時間坐り込んだ後、再び校庭に出て笛やかけ声に合わせてジグザグデモを繰り返し、この間授業は完全に妨害された。

なお、債権者丙野は、学生部長が学生からの質疑に答えるためマイクに近づくことを実力で阻止した。

(二) 六月二〇日、債権者乙江、同丙野、同戊橋らの指導の下に約一〇〇名の学生は校庭で屋外集会を行なった後、ジグザグデモをしながら、厳粛に開催されていた学生自治会主催の「安生君追悼学生集会」の会場になだれ込み、一部学生はさらに壇上にあがって自治会役員とこぜりあいを起こし、集会を約二〇分間混乱状態に陥れたので、自治会はやむなくその一時中止を宣言せざるをえなかった。乱入した学生グループは校庭に出て集会を再開し、シュプレヒコールなどを行なってようやく解散した。

(三) 六月二二日の学生自治会主催の学生大会は、執行委員会がみずからの解散を宣言した後は自治会会則にもとづかない集会となったのであるが、その後同会則には定められていない方法で、臨時執行部が選出された。

(四) 六月二三日、債権者ら六名などを中心とする臨時執行部系の学生は、教職員の制止にもかかわらず校庭に乱入し、学生部長の呼びかけを無視して集会を強行し、債権者乙江、同丁井、同己上らが携帯マイクでアジ演説を繰り返した。約一時間の集会の後、これら学生の代表と称する者が大衆団交を要求し二度にわたり本館正面玄関から館内に立ち入ろうとしたが教職員によって阻止され、次いで集会に参加していた学生全員が大衆団交要求を叫んで本館前に坐り込み、演説、集会を行ない、さらに約五〇〇名の学生が笛とかけ声に合わせて校庭一杯にジグザグデモを繰り広げ、これを阻止しようとする一般学生と衝突し、負傷者まで出た。

(五) 債務者としては、校庭が狭いことから判断して、校庭における集会が無制限に行なわれるならば、教育、研究の環境が損われるので、かねてから校庭での集会等は自粛を求め、あるいは禁止していたのであるが、右のとおり債権者らは、再三にわたる教職員の説得、制止、警告にもかかわらず、三日間にわたり校庭において無届不許可集会、坐り込み、デモを強行し、教育環境を混乱させ、講義、研究の機能を麻痺させた。

(六) 加えるに、債権者らの行動は、大学民主化、大学改革を標戊しながら、その実態は、すでに幾多の大学紛争が経験した紛争のための紛争、大学破壊のための混乱を意図し、授業の継続を不可能ならしめて大多数の学生から勉学の機会を奪おうとするものであり、六月二四日に予定していた全学追悼集会を前に、六月二〇日の自治会主催の追悼集会への乱入、六月二三日の大衆団交要求の決起集会は、いわゆる大学紛争の初期状態を現出させようとするものであった。この大衆団交要求は、他大学の紛争におけるそれと同じく、問題の解決に向ってではなく、これとは別の新たな紛争への導火線としようとしたものとみなくてはならない。

債務者は、この事態に対処するため、遂に臨時休講から全学休校の措置をとらざるをえなかったが、これは債権者ら一部学生の狙う紛争への拡大を阻止するためやむをえない措置であったとはいえ、このために大多数の学生が蒙った勉学上の犠牲は甚大であった。

債権者らは、同人らが口にする学園民主化、大学改革への建設的な参加をみずからすてて、これに逆行する学園の紛争化をはかろうとしたものであり、学園環境を混乱に陥れた債権者らの責任は、まことに重大といわざるをえない。

(七) 七月一七日、一八日における学生部長との面談に際し、債権者らは右行為に対する責任について明確な返答をせず、誠意ある態度は全くみられなかった。同学部および政経学部両学部長との面談においても債権者らは反省の色を少しも示さず、右同様の態度であった。

なお、債権者らはいずれも講義への欠席が多く、学業成績不良、学力劣等の学生であり、勉学の意欲には疑問がある。

3 本件処分に至るまでの手続は次のとおりである。

まず、七月一七日、一八日の両日、学生の賞罰に関する事項を掌る学生部長が前記のとおり債権者らと面談を行ない、六月一九日、二〇日、二三日の集会、デモについての責任をどのように考えているか、学生として規則を守り勉学する気持があるかどうかをただした。

次いで八月七日、債権者らが在籍する商学部、政経学部の両学部長が、債権者らの事実行為を確認し、学生部長との面談後の心境の変化および反省の気持を問いただすため、債権者らと面接した。

その後、学生部において処分原案が作成され、これが八月八日の学生委員会(一〇名の両学部教授で構成)および八月一〇日の大学委員会(総長、両学部長等で構成)において承認され、同日開催された総合教授会(両学部の教授会員をもって構成される。)において処分決定がなされた。

三  処分事由の主張に対する答弁および右主張に対する反対主張

(答弁)

本件処分の理由が、昭和四五年六月一九日、二〇日、二三日に開かれた学生集会に参加したことが学則五二条四号の「学校の秩序を乱しその他学生としての本分に反した者」に該当するというにあること、安生事件が発生したこと、債権者らがそれぞれ債務者主張の日に行なわれた集会、デモに参加したこと、右集会、デモが債務者の許可を得ていないこと、学生部長および両学部長による事情聴取があったことはいずれも認めるが、その余は争う。

(反対主張)

1 本件各処分は懲戒権の濫用である。すなわち、仮に懲戒処分が懲戒権者の自由裁量に属するとしても、せいぜい三回の集会、デモ(そのうち六月二〇日、二三日の両日は臨時休講中であって、実害は全くありえない。)に参加し発言した程度の行動をとらえて退学ないし無期停学という極刑的処分を科することは全く常軌を逸しており、社会観念上著しく妥当を欠くものと認められる場合に外ならない。

また債務者は、債権者らの行為が、「紛争のための紛争」、「大学破壊のための混乱」を意図したものであると認定し、それゆえに情状が重いものであると判断したもののようであるが、後述するような集会、デモの実態(発言、討議内容や掲げたスローガン)、六月二二日の学生大会において採択された大学当局への要求項目などに照らし、右のような大学当局の見解がはなはだしく事実を歪曲するものであることは一見明白である。

以下その要理由を詳述する。

(一) 安生事件は、拓殖大学において従来運動部や応援団を中心として日常的に頻発して来た多くの暴行事件と同じく、大学の封建的体制そのものに深く根ざしたリンチ事件であって、これら学内集団を放任、助成して来た大学当局の暴力温存政策の結果として起こるべくして起きたものであった。それゆえにこそ、安生事件は、拓殖大学に学ぶ多くの学生に深刻なショックを与えたが、大学当局は、安生事件を「一部学生の無思慮な行為の結果(中曽根総長談話)」とか「偶然の不祥事(三代川学生部長)」であるとして自己の責任を棚上げにし、単に直接の加害者である拓忍会関係者の処分などで事態を収拾しようとした。

しかし、このような学内の暴力集団の残虐さと大学当局の欺瞞性とに対して強い憤りと不満を感じていた多くの学生は、事件発生後一四日目の六月一九日に至ってにわかに新しい行動に移った。

(二) 六月一九日昼休み、学生が中庭で一人の教官に「死のリンチ事件」について問いかけたことに端を発して、学園の各所にいた学生が続々と集まり始め、その数はついに二、〇〇〇名程に達し、いままでリンチの仕返しを恐れて沈黙を強制されて来た学生は、誰が企画したというものでもないのに自然発生的に次々と不安な気持を表明し、安生君の霊に報いるには、学園からあらゆる暴力を一掃すべく、そのためには、学生自治会を真に学生側の立場に立ったものにするなど一連の学園民主化措置が必要だ等と発言した。

これに対して、討論が途中から体育系(運動部、応援団を中心とする体育会関係)の学生らが暴力をもって集会の妨害と分断をはかろうとする行動に出たが、学生部長を始め教職員らは拱手傍観の態度をとり、また学生らの集会に対しても、当初は、事情説明のため積極的に参加しようとしたものの大学当局に対する非難が強まって来たために態度をかえ不当にも許可のない不法集会ときめつけて規制にのりだして来た。しかし、集会はこれらの妨害にもかかわらず整然と行なわれ、そののち暴力反対の学内デモに移ったのである。

(三) 六月二〇日、講堂で学生自治会主催の「安生君追悼学生集会」が開催されたが、従来、学校当局の意思を代弁する傾向が強かった自治会の運営に対して強い不満をもつ一般学生が、同集会は当局の学生鎮撫の機会にすぎないこと、同講堂は、一、〇〇〇名のみしか収容できないことを理由に屋外で学生だけの集会を開くよう強く要求したところ、自治会執行部もこれをうけいれ、一旦集会を中止し午後三時ころから中庭において執行委員長ら自治会執行部の主宰参加のもとに二、〇〇〇名を越す学生が集まって集会が継続された。そして、大学当局もこれを正規の集会と認めてなんらの規制をも加えなかったのである。

なお、当日は、四時限ら五時限がすべて休講とされていた。

(四) 大学当局は、このような事態に対し、六月二〇日、大学委員会の決定であるとして、同月二二日ないし二四日の間臨時休校とし、二二日開催予定の自治会大会を無期延期とする旨の学生の学習権、自治権を一方的にふみにじる措置に出た。そのため、自治会執行部は、これに強く反発、抗議するとともに、一般学生に対して「学園民主化と暴力追放のため、大学側の措置に反対し同盟登校をしよう。」と呼びかけることを決定し、六月二二日には、これに呼応して学園民主化を望む多数の学生が登校し、予定どおり午後一時から講堂で一、五〇〇名の学生が参加して学生自治大会が開かれた。

ところが、自治会執行部は、右大会でその提案にかかる議題がいずれも否決されたことから、執行部解散の声明を出して退場してしまったため、参加者からの執行部リコールの動議が提案され、これが圧倒的多数をもって可決されて、新たに臨時執行部が選出された。そして、右大会は、当面の要求として、「麗沢会解散、自治権確立」、「拓禅会、銃剣道愛好会などの暴力団体即時解散」、「学生自治権に対する当局の干渉反対、クラス制度確立」、「安生君の死の制裁事件の責任が学校当局にあることを認めよ」の四項目を確認し採択した。この要求は、従来の拓大における暴力的校風の根源であった卒業生をも含めた組織である麗沢会とその監督、指揮下にある暴力組織を排除し、学生の権利、利益を真に代表する自治会を確立しようとしたものであり、極めて正当かつ当然の要求であったが、旧来の支配体制を維持しようとする大学当局は、臨時執行部を正式なものとは認めないという不当な口実をもって、右要求を拒否した。

(五) そこで、臨時執行部は、六月二三日、校庭で右要求につき大学が学生との大衆団交に応ずるよう求め、約一、五〇〇名の学生が参加して集会を開いた。ところが、これに反対する体育系学生約二〇〇名が集会に参加していた学生に数回にわたって襲いかかり、殴る蹴るの暴力の限りを尽し、そのため一般学生に多数の重軽傷者が出た。

ところが、大学は、暴力追放のために立ちあがった一般学生の学園民主化運動を暴力をもって粉砕しようとする暴力学生の策動に呼応するかのように、二四日から大学をロック・アウトするとともに、新聞記者に対して、「ロック・アウトの理由は昨日のような学生間の乱闘や暴行による不祥事の予防だ」、「体育会は規律正しい。武道をやる者は人間的エチケットを心得ている(中曽根総長)」とか、「体育学生は、やむにやまれぬ愛校心からデモの妨害をしたのだ(三代川部長)」などと発言し、当局の暴力温存、学園民主化圧殺の政策と体質を露骨に示した。

(六) 以上のとおり、債権者らの行動は、暴力追放、学園民主化という最低かつ当然の要求の実現を目的とし、そのために体育系学生の悪質な妨害にもかかわらず整然とした態様で集会、デモを行なったもので、他の学生の研究、勉学の権利を損うところはなかったから、なんら違法性は存しない。仮に、手続的に債権者らの参加した集会、デモが債務者の許可を得ていないことが問題となるとしても、債務者は昭和四五年四月以降一切の屋外集会を一律に禁止する告示を出して許可申請の途を閉ざして来たのであるから、債権者らが許可申請の手続をとらなかったことを非難することは信義則に反するといわなければならない。

2 また、債権者らが参加した各集会、デモは、右に述べたとおり学内から暴力を追放し学園を民主化しようとした正当な表現の自由の行使であって許可申請の手続をとらなかったことも信義則に反するとはいえないものである。したがって本件処分は懲戒権の行使に名をかりて合理的理由もないのに表現の自由の行使を制限するものであって、憲法二一条一項に違反して無効であるというべきである。

3 さらに、懲戒権は、学校教育法一一条、同法施行規則一三条に規定されているとおり、「教育上必要があると認めるとき」に行使しうるものであるが、教育的処分に名をかりて学生の集団的運動に対する不当な報復手段として処分が行なわれることは厳に禁じられなければならない。ところが本件処分は、債務者が拓殖大学において日常化している暴力事件の責任を回避し、暴力を根絶するための四項目の要求をかかげた債権者ら多数の学生の大衆団交などの要求を封ずるための対抗手段としてとったロック・アウトや学園環境の平静を保持する旨の確約書提出などの措置を実効あらしめるための、いわばみせしめを作る必要から行なったもので、懲戒権の本来の目的を逸脱した違法なもので無効である。

四  反対主張に対する答弁

債権者らの主張は、いずれも争う。

第三疎明関係≪省略≫

理由

一  債権者らに対する懲戒処分の存在とその手続

債権者らが、債務者の設置する拓殖大学の学生として、その主張のとおりの学部、学年に在学していたこと、債務者が、昭和四五年八月一八日、債権者らに対して学則五二条四号の「学校の秩序を乱し、その他学生としての本分に反した者」に該当するとして、その主張のとおりの懲戒処分を通告したことは、いずれも当事者間に争いがない。

そして、≪証拠省略≫によれば、拓殖大学の学則には、右のような事由に該当する者は情状により譴責、謹慎、停学もしくは退学の処分を行なうとの定めがあり、またその事務規定によれば、学生の賞罰については学部教授会もしくは各学部の教授会員をもって構成する総合教授会によって審議すべきものとされているところ、債権者らに対する本件処分は、これに従い総合教授会によって審議、決定されたことが疎明されるから、その決定に至る手続については特にかしの存在は認められない。

二  本件処分の前提となった事実の基礎の有無

1  本件処分の理由が、主として昭和四五年六月一九日、二〇日、二三日の集会、デモの際の債権者らの行動であったことは当事者間に争いがないが、成立に争いのない乙第一一、第一二、第一六号証(以上は拓殖大学広報委員会発行の拓殖大学学報であって、総長の右集会、デモに対する見解、学生部資料による安生事件発生から六月末までに至る学内の事態の詳細な推移、本件処分の理由についての説明が掲載されており、これらの認定、見方が本件処分の前提となっているものと推認される。)、≪証拠省略≫を総合すれば、より詳細には、本件処分は債務者の次のような事実認識にもとづくものであったことが疎明される。

イ  右三日間の外形的事実はほぼ本件訴訟における債務者主張のとおりであり、債権者らはいずれもこれらの行動を指導した者である。

ロ  そして債権者らは、すでに安生事件以前に、計画的集団行動により学園を混乱させ、大学を安保粉砕等の政治的闘争の拠点にしようとの意図を有しており、三日間の行動は、表面上は安生良作の死という不幸な事件に対する抗議の形式をとっていたが、真実は昭和四四年以降続けられていた債権者らのいう学園民主化闘争の有効な足がかりとして、同時にまた七〇年安保闘争へと大きく盛りあげていくために、純真な多数学生の安生君に対する追悼の気持を政治的闘争に向きかえ、大学をさらに大きな混乱に陥れ、学内かく乱および拠点確保をめざす戦術上の決め手として、安生事件を意図的に利用したものである。

右のような企画は、いわゆる活動家学生の常道とする大衆団交要求に至る一連の行動によって表面化して来た。

ハ  債権者らは、これらの行為に対する再三にわたる学校側の勧告、説得あるいは両学部長、学生部長の面談、事情聴取にもかかわらず反省の態度がみられず、改善の見込みがない。

また、授業への出席は常ならず、学業の成績もかんばしくなく、勉学意欲があるとは認め難い。

2  そこで、右のような債務者の事実認定が、その基礎を欠くものであるかどうかを検討する。

イ  まず、六月一九日、二〇日、二三日の集会、デモの態様とその際の債権者らの行動、役割および債権者らの意図に関しては、≪証拠省略≫を総合すると、大要次の事実を認めることができる。

a 六月一九日の集会は、午後零時三〇分ころから、校庭に債権者丁井を除く債権者ら全員を含む数百名の学生が参加して行なわれたが、右集会は、学生部長や教職員らの中止命令を無視して続行され、債権者乙江、同甲塚のほか数名の学生が次々と立って、携帯マイクを使用して暴力追放、拓大民主化、安生事件についての大学の責任追及などの演説をし(なお、途中で学生部長が現場に赴き、安生事件について説明するからマイクを貸すように申出たが、債権者丙野はこれを拒否した。)。一部学生は、大学当局との面会を要求して本館内に坐り込みをしたりした。その後、集会はシュプレヒコールを繰り返し、債権者乙江、同丙野らの指揮のもとに笛、かけ声に合わせてジグザグデモをして気勢をあげて同日午後四時ころ解散した。

b 六月二〇日午後零時三〇分ころから、学生自治会主催の「安生君追悼集会」が講堂で開かれたが、六月行動委員会(この委員会およびこれと債権者乙江、同丙野、同戊橋との関連は後に認定する。)に属する学生等はこれに同調せず、右委員会が主催して(この事実は債権者戊橋の陳述書である甲第八号証に明記されている。)午後一時ころから相当数の学生を集めて校庭で無届集会を開き、自治会のこれまで行なって来たことは犯罪的で欺瞞にすぎないとして右追悼集会に参加してこれを追及することを決め、デモ行進ののち約五〇名が追悼集会場に乱入し壇上で自治会役員らとこぜりあいを起こすなどして集会を混乱させ、そのため追悼集会は中止のやむなきに至った。そして、こぜりあいの際若干の負傷者が出た。その後、乱入した学生らは再び屋外で集会を開き、自治会執行委員長を加えて安生事件の真の原因や自治会のあり方などについて質疑応答をし、シュプレヒコールを繰り返して解散した。

この日の集会には、債権者全員が参加し、かつマイクで発言したうえ、債権者己上、同丁井が講堂乱入に加わった。債権者乙江も乱入しようとしたが、阻止された。

c 六月二二日、安生事件発生以前から予定されていた自治会主催の定例の学生大会において、自治会執行委員会の提案は否決され、債権者甲塚の提案した「六・二三大衆団交実現実行委員会」(これについては後に認定する。債権者甲塚、同己上、同丁井はそのメンバーである。)の大学に対する四項目の要求が議題として採択された。その四項目とは、学生、教職員の親睦団体である麗沢会は学内暴力の根源であるからただちに解散すること、学内における暴力行為は断固とりしまること、学内での集会、ビラ配布の自由、自治会の団交権を認める等学生の自治を確立すること、安生事件の全責任が学校当局にあることを認めて全学生の前に自己批判することというのであり、これらの要求に答えるために、大衆団交に応ずべきであるというのである(債権者甲塚正一本人尋問の結果によれば、前記委員会としては、自己批判とは全学生と教授との団体交渉において、学校側が学生の要求を全面的に認める確認書に調印するということ等を考えていたこと、ところが、反面、このような団体交渉は六月二三日に開催を予定していたというのに場所、時間なども未定という状態であったことがうかがわれる。)。

そして、自治会執行委員会は、みずからの解散を宣言して退場したため執行委員等の不信任動議が可決され、その後会場内から適宜壇上にあがった学生全員が選任されるという方式で、三三名からなる臨時執行部が選出された。同時に臨時執行部は、右のような大衆団交を学校側に要求する代表団としても承認された。

債権者らは全員が臨時執行部に加わり、うち債権者甲塚、同乙江が副委員長、同戊橋が情宣部長、同丁井が厚生部長に就任した。

d 六月二三日の集会は、午後一時ころから、臨時執行部の主催のもとに、大衆団交を要求するためとして開かれたが、右集会には既退学者も加わってマイクでアジ演説をしたうえ、代表団八名が二回にわたり本館への立ち入りをはかり、あるいは集会参加者全員が本館前に坐り込みをするなどして執拗に大衆団交を要求した。これに対し、学生部長が、再三、「大学はあらゆる種類の暴力を排除することに全力をあげている。安生事件は政治的問題ではない。改革を推進するために正常な話合いには応ずる用意がある。不法な集会はただちに解散せよ。」等と呼びかけたが、集会はこれを無視して続けられ、シュプレヒコールを繰り返したのち、デモ行進に移った。デモは三隊にわかれ、参加者全員が隊列を組んで前かがみになり笛やかけ声に合わせながらジグザグ行進をするもので、約三〇分間続けられた。そのうえ、集会、デモに反対する学生らとの間に衝突が起こり、数名の負傷者が出た。

債権者らは、全員右集会、デモに参加して債権者甲塚、同乙江、同丙野、同丁井がマイクで発言し、債権者丙野、同己上を除く全員が、大衆団交を要求する代表団に加わった。

e ところで前記六月行動委員会とは、債権者乙江、同丙野、同戊橋が一員である全学行動委員会などによって結成されたものであるが、右全学行動委員会は、昭和四四年六月、従来の学生自治会は大学の全くの代弁者にすぎないから、これに代って、大学を民主化するために、より戦闘的な組織が必要であるとして拓殖大学の一部学生によって結成されたものであり、大学側に対して、大学内での言論、出版、集会の自由を確約せよ、麗沢会を解体して真の自治組織のもとに改めよ、大学当局は全学行動委員会を唯一の全学生の代表機関として認め交渉に応ぜよ等七項目および以上七項目を全学集会において文書をもって確約せよとの八項目の要求を掲げて多数回の集会、デモを繰り返し、百数十回にわたって学内で種々の内容のビラを配布する活動を続ていた。

f 昭和四五年六月五日に至り、右全学行動委員会は拓大全学闘争委員会(準)、拓大民主化統一戦線、拓大べ平連、マル学同中核派拓大支部、拓大全学反帝学生評議会、拓大全学反帝学生戦線等の各組織とともに、立教大学において「六・五安保粉砕拓大闘争勝利全学討論集会」なる会合を開き、「安保粉砕」、「沖繩闘争勝利」、「日米共同声明粉砕」、「教育の帝国主義的再編粉砕(中曽根退陣、麗沢会解体)」、「出入国管理体制粉砕」等をスローガンとして、拓殖大学において六月を期してこれらスローガンを貫徹するための運動を推進することを目的として、六月行動委員会を発足させ、六月闘争、六月決戦を学生に呼びかけていた。

このころ右拓大全学反帝学生戦線は、民族排外主義、アジア侵略への挙国体制を作りあげようとする中曽根体制を粉砕せよ、拓大の学生は学生大会(六月二二日に予定されていた定例の学生大会と推測される。)において闘争宣言を打ち出そうとのビラを配布している。

(そして、前記債権者戊橋の陳述書には、「六月行動委員会は以後今回の運動を他の闘う組織とともに押し進める」旨の記載があり、本件集会、デモにおいて右委員会が積極的役割を果したことは明白である。)

g 債権者己上は、同年六月三日、学内に「中教審中間報告粉砕、学園民主化をかちとろう。民青同盟」と書かれたビラを貼った事実がある。

h また、債権者甲塚、同己上、同丁井が属していた前記六・二三大衆団交実現実行委員会は、六月一九日までにその準備会として発足しており、六月一九日の集会後に「六・二二学生大会提案(第一次案)」を掲載したビラを印刷し、翌二〇日の集会において配布している。その提案とは、安生事件は、封建的、軍国主義的な拓殖大学の伝統から生み出された必然的な結果であるから、安生事件についての大学側の責任を徹底的に追及し、暴力反対、基本的人権確立、自治会民主化を要求して全学抗議ストライキ、大衆団交実現のため総決起すべきである。麗沢会を解体し、新しい自治会を建設すべきである。軍国主義を讃美する学校当局の教育方針に反対し、授業内容を改善すべきであるというのであり、具体的方策として、各クラス等から闘争委員を選出して全学闘争委員会を作り、六・二二学生大会、全学抗議ストライキ、大衆団交実現のための運動の中心とするなどということが述べられている。

さらに、六月二二日の学生大会では、前日に作成された大衆団交実現実行委員会名の「学生大会提案(第二次案)」を掲載したビラが配布された。その内容は、債権者甲塚が学生大会において提案した前記四項目と同一である。

債権者甲塚、同己上、同丁井はこれら印刷物の作成にも関与している。

i 六月一九日の集会に持込まれた携帯マイクには「フロント」と記載されており、六月二〇日講堂に「反帝学評」などの旗ざお三本が持込まれた。

以上の事実が一応認められ、これを覆すに足りる疎明資料はない。

以上の事実を総合判断すれば、六月一九日、二〇日、二三日の集会、デモの態様は、本件処分の際の債務者の認定と大差なく、債権者らはその際、右集会、デモの主体となりあるいはこれを主催した六月行動委員会、大衆団交実現実行委員会、臨時執行部のメンバーや役員としてこれに参加し、マイク発言やデモの指揮、講堂への乱入などの行為をしていることに鑑み、指導的役割を果したことも明白というべきである。

しかも、前記認定の全学行動委員会ないし六月行動委員会の一連の動きをみると、債権者乙江、同丙野、同戊橋を含む一部学生は、安生事件発生以前から昭和四五年六月を期して拓殖大学において政治的運動を盛りあげようと企図しており、そこでの中曽根退陣、麗沢会解体等の主張が六月一九日以降の集会、デモにおける要求項目と共通することからみれば、本件の集会、デモが右のような従来の運動ないし企図と関連がないとはいえないし、一方、債権者甲塚、同己上、同丁井の属する六・二三大衆団交実現実行委員会の迅速かつ組織的な動きをみれば、右委員会が大衆団交を契機として、学生を大学の制度変革の運動に導き入れようとする計画性がうかがわれるのであって、これら債権者全員が臨時執行部に糾合し、まさしく混乱の惹起そのものを目的とするといわざるをえない大衆団交実現のための集団行動を推進し指導したことを考え合わせれば、債務者が債権者らを含む学生の一連の集会、デモを政治的、計画的意図を持つと判断したのもあながち無理からぬものがある。したがって、債権者らの意図に関する債務者の認識も事実の基礎を欠くものとはいえない。

ロ  次に、学生部長、両学部長との面談における債権者らの態度については、≪証拠省略≫により、債権者らは自分らの行動が誤っているとの考えは全く持っておらず、今後同様の行為を継続するかどうか、学則を遵守するかどうかとの質問については、答えようとはせず、あるいは無条件で学則に従う訳にはいかないと答えたことが認められる。

さらに、≪証拠省略≫によれば、債権者らの学業成績は良好とはいい難く、授業への出席情況も良くないものと認められる。

したがって、これらの点に関する大学側の認定も事実の裏付けがあるといってさしつかえない。

三  懲戒処分と懲戒権者の裁量権

1  学生の行為に対して懲戒権を発動するかどうか、懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶかを決定することは、この点の判断が社会観念上著しく妥当を欠くものと認められる場合を除き、原則として懲戒権者の裁量に任されているものと解するのが相当である。

2  そこで、右基準に従い債務者がその認定した事実(これは前項でみたように事実の基礎を欠くものとはいえない)にもとづいてなした本件処分が社会観念上著しく妥当を欠くものかどうかを検討する。

イ  まず、本件のデモ、集会は、安生事件を契機として拓大民主化、暴力追放などを標榜して行なわれたものとはいえ、その目的、手続、態様および結果が前項でみたような状況であることから、債務者が大学当局としてこれを看過しえないものであり懲戒処分が相当であると判断したのも、社会観念上いちがいに不当とはいえない。

すなわち、右集会、デモは、前記のような意図でもっぱら大学当局に対して大衆団交を要求し、いわゆる自己批判をさせて安生事件に対する責任を追及する等の目的のもとに行なわれたもので、安生事件によって明るみに出た問題を解決するための建設的、実際的な改革やそのための正常な話合いを目的としたものとはいえない。しかも、右集会、デモは後に述べるような大学のとった各種の措置や声明さらには大学の多数回にわたる中止、解散命令を無視して行なわれ、その結果学内を混乱に陥れ、負傷者さえ生じ、遂には債務者を臨時休講から全学休校という事態に追い込み、大学としての教育、研究の機能を一時的にもせよ麻痺させたものというべきであり、現実に与えた影響も決して軽微とはいえない。とくに、≪証拠省略≫によれば、債務者は混乱の拡大を防止するため、六月二二日から二四日は臨時休講とし、さらに六月二四日から全学休校とし、そのまま夏期休暇を繰りあげて開始する措置をとらざるをえない事態となり、ようやく九月一日から授業が再開されたことが認められる。

また≪証拠省略≫によれば、債務者は安生事件発生後の六月一六日ただちに「安生事件に対する大学の処分に信頼し、かつ、同種事件の再発を防止するため一層の自覚と協力を希望する。拓忍会の活動を当分の間停止する。会員は謹慎せよ。」という趣旨の告示を出すとともに、六月一九日、総合教授会において、拓忍会関係者一四名の退学、拓忍会解散、名称の永久使用禁止などの処分を決定して告示し、さらに六月二三日には大学当局としても責任を痛感し、全学を挙げてこのような事件の発生を根絶するための努力を強力に推進する旨の基本方針を発表し、とりあえず六月二五日教授会内に大学改革特別委員会を設置し、各種小委員会の手によって暴力事件の調査、学内団体、学寮の実態の点検などの作業に着手していることが認められるのであって、以上の事実によれば、大学当局も学内における暴力事件を放置していたものではなく、その絶滅のために種々の対策をたてていることが明らかである。

ロ  なお、≪証拠省略≫によれば、臨時執行部は六月二二日の学生大会において旧執行委員会がみずからの解散を決定した後にただちに学生大会において選出されたものであるが、これは正規の手続に従ったものではなく、自治会会則によればこのような場合は役員会を開催し、新執行委員を選出することとされていることが認められる。そうすると臨時執行部の選出方法には疑義があることは明らかであり、債権者らの要求、行動が多数学生の支持にもとづくものであり、その気持を代弁するものであったとしても、大学側が臨時執行部からの交渉の要求に全く応じようとしなかったのも、一理あるものといわなければならない。まして、その要求が大衆団交をせよというのであるから、大学当局がこれを拒否したことを非難するのはあたらない。

ハ  以上諸般の事情と債権者らが前記集会、デモを指導した者である事実に鑑みると、債務者が債権者らを懲戒事由の一である「学校の秩序を乱しその他学生としての本分に反した者」に該当するものとして退学ないし無期停学の処分に付したことが社会観念上著しく妥当を欠くとは到底いいえない。

債権者らは、これに対して、大学の反民主的、暴力的体質とか右翼暴力集団と大学との結びつきを強調し、大学の民主化と学生の自治権の確立のために立ちあがらざるをえなかった事情を縷述するが、このような動機いかんは、かならずしも手段としてとられた前記集会、デモおよびこれから生じた結果までをも正当化するものではないのはもとより、所論のように集会、デモに対して体育系学生等が悪質な妨害を加えたとしても正当化されるものではない。また、≪証拠省略≫によれば、従来(少なくとも昭和四四年九月以降)拓殖大学においては無届集会を理由として退学ないしは停学の処分に付した事例は皆無であることが、また≪証拠省略≫によれば、臨時執行部の選出および四項目要求実現のために学校側と大衆団交を実施するとの提案は、学生大会において多数学生の支持を得たことがそれぞれ認められるが、かかる事情によっても右の判断が左右されるものではない。

四  表現の自由および懲戒権の濫用

債権者らは、債務者が一切の屋外集会を禁止しているのは憲法の表現の自由の侵害であり、屋外集会を理由とする本件処分も憲法に違反して無効であると主張するが、債権者らの行為は前記認定のような集会、デモの態様からして単なる表現の自由の行使というにとどまらないものであるから採用の限りではない。なお、私立大学においてその教育方針ないしは校庭の広狭など施設の実情に応じて、単に屋外におけるそれを一切禁止し、また平穏な学内環境の維持などの観点からデモ行進を許容しない等の措置をとっていたからといって、ただちに表現の自由に対する不合理な制限であるとはいい難く、本件処分が憲法ないしは公の秩序に反するものと即断することはできない。

また、本件処分が懲戒権本来の目的を逸脱し、みせしめを作るためになされたとの債権者ら主張の事実を認めるに足りる疎明資料はない。

五  よって本件処分は有効というべきであり、債権者らが拓殖大学の学生であることあるいはその学生としての権利を行使しうる地位にあることの疎明はないことに帰し、保証をもって右疎明に代えることも相当ではないから、本件申請をいずれも却下することとし、申請費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 西山俊彦 裁判官 矢崎秀一 裁判官 太田豊)

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